憲法が守った70年の平和
〜戦争はイヤ!九条を守ろう〜

 

    2015年7月月22日 練馬文化センター小ホールにて

       

                    講師  伊藤 真さん

     
         
  


はじめに

 ご承知のように戦争法案は衆議院を通過してしまいました。安倍さんも国民の理解が進んでいないということを認めておられるようですが、国民の理解は進んでいるのです。「これは憲法違反だ。これは戦争法案だ」ということをどんどん理解してきました。これまでの70年の平和は憲法が築き上げてきたと私は思っています。「昔から自衛隊は違憲と言っていたではないか、当初は国民だって自衛隊に反対していたではないか、憲法学者も自衛隊は憲法違反だと言っていた。当初は理解されていなかった自衛隊も今はこれだけ国民の理解が進んでいる。この法案も時が経てば国民も理解してくれるに違いない」と安倍さんは言っているようです。そうではありません。自衛隊に対して国民が理解をしたのは、今まで一度も戦争で人を殺してこなかった。70年間ずっと戦争をしない国で居続けた。そして何よりも70年間平和を維持してきたからこそ、理解が深まったのだと思っています。そしてそれは憲法九条があったからです。
 私は憲法の価値を実現することが法律家の仕事だと思って、そういう法律家を1人でも多く世に送り出すために、伊藤塾の塾長として、法律家・公務員の養成を30年以上続けています。また市民の方にも、少しでも憲法を考えていただきたいと考えまして、執筆活動も続けています。『やっぱり九条が戦争を止めていた』(毎日新聞社)、子ども向きの本として『あなたこそたからもの』(大月書店)などを今日も入り口に置かせていただいています。
 最近は東京大学で、高橋哲哉先生、小森陽一先生、佐藤学先生など、大学の叡智と呼べる方々や学生とともに声を上げています。そして、「国民安保法制懇」(2015.7.13)を立ち上げ、内閣法制局長官だった大森政輔さんはじめ、多くの研究者や実務家の方々とともに反対の声をあげるといったことをやっています。


■明治憲法から日本国憲法へ     〜憲法価値の転換〜

 はじめに憲法がなぜ作られたのかということも含めてお話をさせていただきます。1889年2月11日に大日本帝国憲法(明治憲法)が発布されました。2月11日は「建国記念の日」です。戦前は2月11日を「紀元節」といって最も大事な日とされていました。神武天皇が日本を作った日というわけです。明治政府はこの日に合わせて「大日本帝国憲法」を発布しました。この憲法は1945年8月14日に役割を終えます。ポツダム宣言を受諾して敗戦になったからです。ポツダム宣言を「つまびらかに読んでいない」とおっしゃった方がおられますが、ポツダム宣言の中で日本は民主主義の国になることを約束したのです。そのために憲法を民主主義にふさわしいものに改定しなければいけなくなり、政府は憲法案を用意しました。ところがその案は明治憲法の焼き直しで「天皇主権」のままでした。これではダメだというのでマッカーサーがたたき台を作り、それを日本政府に押しつけ、日本政府が修正をして、国会で議論をして新しい憲法を作ったということになります。ですから、昔は良かった、明治憲法はよかったと思っている人にとっては「押しつけ憲法」と感じたということです。当初政府は、新しい憲法を8月11日に公布するつもりでいました。8月11日に公布すれば、その半年後の2月11日を「憲法記念日」にできるからです。明治憲法と同じ日を憲法記念日にしたかったのです。ところが8月11日には間に合わなかったので、次の目標を11月3日にしました。11月3日は明治天皇の誕生日だからです。その6ヵ月後が憲法記念日5月3日ということになります。日本政府は明治憲法との連続性を強く意識していたのです。しかし、中味はまったく様変わりをして、目指す国の形は戦前と戦後では大きく変わりました。比べてみます。

              <戦前の日本>   →    <戦後の日本>
                      天皇主権    →    国民主権
                           戦争し続けた国   →     戦争できない国
                臣民の権利にすぎない国  →    天賦人権思想の国
                         教育を利用した国    →     教育内容に介入しない国
                       宗教を利用した国    →     政教分離
   障害者、女性、子どもを差別した国   →     差別のない国
           貴族・財閥・大地主のいる国   →    格差を是正する国
             自己責任を強いる国   →    福祉を充実させる国
                   徹底した中央集権の国   →     地方自治を保障する国
                  国家のための個人    →     個人のための国家
                国家・天皇を大切にする   →    一人ひとりを大切にする

 この右側に書いてあるものが、戦後レジウム、戦後体制ということになります。ここからの脱却を目指すと今の総理大臣は言います。ここから抜け出してどこに行くかというと、どうも戦前の体制のようなのです。

 

■ナチス時代と最近の日本

 私たちはなぜ法律は正しいと考えるのでしょうか。「その地域や時代の多数の人の意見に従っているから正しい」と考える人が多いと思います。では多数意見が常に正しいのかというとNOです。人間だからです。人間は情報操作、雰囲気、目先の利益に惑わされて、間違いを犯すことがあるからです。間違いを犯してしまう弱い生き物なのです。間違いを犯す弱い人間の声をたくさん集めて政治をやった結果失敗してしまったという例はたくさんあります。その一番の例がナチスドイツ時代のヒトラーです。

ヒトラーは政権を取った後に写真集を発行します。その中には女性や子どもたちにとても優しく接している写真がたくさん出てきます。ドイツには600万とも700万ともいわれる失業者が溢れていたのですが、公共事業として高速道路をつくることで経済を上向きにして失業者を減らしたため、ドイツ国民は熱狂的に彼を支持しました。1936年にはベルリンでオリンピックを開催します。ドイツ国民は経済を上向きにして、オリンピックまで開催してドイツ国民の優秀さを世界に知らせてくれた…、どこかで聞いたことのある話だと思うのですが、若者達は心酔してしまいます。その陰でヒトラーは左翼の弾圧やユダヤ人虐殺などいろいろなことをやりました。強制収容所の門には「働けば自由が得られる」という言葉が飾られています。「嘘ばかり」と思うのですが、日本でも「原子力は安全」と宣伝されていましたね。
 強制収容所には多くのユダヤ人が貨物列車で連れてこられ、女性や子どもなど役に立たないと判断された人はそのまま裸にされてガス室に送らました。指輪は外され、髪の毛も切られて殺さ
れたのです。髪の毛でオーバーコートの生地をつくっていたのです。人を物として扱ってしまう。日本だってそうですね。731部隊では生きている中国人を人体実験していて、その中国人を丸太扱いをしていたそうです。特攻隊も、普通の兵隊もそうです。消耗品のように扱われていました。戦争は人間を物として扱うのです。陰でこのようなことが行われていることを知らずに、ドイツ国民はヒットラーに熱狂していました。

 

戦争プロパガンダ
アーサー・ポンソンビーという人が書いた「戦時の嘘」(1928年)という本の中に、当時言われていた言葉が出てきます。
    ・われわれは戦争をしたくはない。
    ・しかし敵側が一方的な戦争を望んだ。
    ・敵の指導者は悪魔のような人間だ。
    ・われわれは領土や覇権のためではなく偉大な使命のために戦う。
    ・われわれも誤って犠牲を出すことがある。だが敵はわざと残虐行為におよんでいる。
    ・敵は卑劣な兵器や戦略を用いている。
    ・われわれの受けた被害は小さく、敵に与えた被害は甚大
    ・芸術家や知識人も正義の戦いを続けている。
    ・われわれの大義は神聖なものである。
    ・この正義に疑問を投げかける者は裏切り者である。
こういう宣伝を行えば国民は戦争に賛成してくれるというわけです。

② ヒトラーは「わが闘争」にこのように書いています。
「大衆の理解力は小さいが、忘却力は大きい。効果的な宣伝は重点をうんと制限して、これをスローガンのように利用し、…最後の1人まで思い浮かべることができるように継続的に行わなければならない。
…問題に対する主観的一方的態度が重要。代表すべきものを専ら強調すること。
…大衆は…純粋に理性的判断からでもなく、動揺して疑惑や不安に傾きがちな人類の子供から成り立っている。
…民衆の圧倒的多数は冷静な熟慮よりもむしろ感情的な感じで考え方や行動を決める。この感情は単純であり、…肯定か否定か、愛か憎しみか、正か不正か、真か偽りか。
…大衆に確信させるために…何千回も繰り返すこと。」

 安倍さんも、「安保法制なんか国民は理解できないだろう。今ここで強行採決をして一時的に内閣支持率が下がったとしても、1年もすれば忘れるから、来年の参議院選挙までには国民は忘れてくれるだろうから心配はいらない」と思っているかも知れません。バランスの取れたことなど言ってはダメ、とにかく一方的なことを言い続けるのだ。断じて戦争には巻き込まれませんと言い続けるのだ。大切なことは言い続けることだ。理解などしなくて良い、とにかく何回もくり返すことが大切というわけです。

ゲシュタポをつくったヘルマン・ゲーリング元帥の言葉
 「もちろん、人々は戦争を望みません。運がよくてもせいぜい五体満足で帰ってくるぐらいしかないのに、
   貧しい農民が戦争に命を賭けたいわけがありません。一般人は戦争を望みません。 
  ソ連でも、イギリスでも、アメリカでも、そしてその点ではドイツも同じことです。ですが、政策を決め
   るのはその国の指導者です。それに人々を従わせるのはどんな政治体制であろうと、常に簡単なことです。
  …国民にむかって、われわれは攻撃されかかっているのだと煽り、平和主義者に対しては、愛国心が欠け
   ているし、国を危険に曝していると非難すればよいのです。この方法はどんな国でもうまくいきますよ。」

 「尖閣諸島をとられるぞ!」「北朝鮮のミサイルが飛んでくるぞ!」「日本を取り巻く安全保障環境が急速に変化しているんだ」と、国民を煽ればいいだけだというわけです。赤ちゃんを抱いたお母さんのパネルを見せて不安がらせれば、上手くいきますよということなのです。
 戦争をするためには三つ必要なことがあるといいます。強い軍隊、賢い政府、熱狂する国民だといいます。熱狂する国民がいなければ戦争はできないから、政府はいかに国民を熱狂させられるかが大事というわけです。ですから私たちは「常に冷静でいること」、私たちが「忘れないということを言い続けること」、それが何よりも必要なことだと思います。


■日本国憲法の理念と基本原理

国民主権


日本国憲法は、すべての人の人権が保障されるという考え方が土台になっていて、その上に国民
主権、基本的人権の尊重、戦争の放棄の三つの柱が立っているのです。
 憲法前文は、
  [日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、
  諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によって
  再び戦争の惨禍が起こることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、
  この憲法を確定する]
としていますが、この主語は「日本国民」です。そして「憲法を確定する」が述語です。「確定する」は「制定する」をより強く言っているのです。「日本国民がこの憲法をつくりました」と冒頭で掲げたのです。
 憲法をつくった目的は「自由のもたらす恵沢を確保するため」日本中に自由と人権をもたらすため、「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意し」、戦争をさせないために憲法をつくりました。そしてそれを実現する方法として、「ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する」としたのです。つまり、自由と人権、戦争放棄を目的として、「国民主権」という手段をとった。国民ひとり一人が主権者として行動することでこの目的を実現する。そのためにこの憲法をつくったと前文は言っているのです。「日本の主権を侵されてたまるか」ということを最近時々聞きますが、「国民主権」と「日本の主権」とは全く関係ありません。


■憲法と立憲主義
 憲法とは、国家権力を制限して国民の権利や自由(人権)を守るものであり、権力行使に憲法で
歯止めをかけるという考え方を立憲主義といいます。もともと憲法はイギリスやフランスの国王が好き勝手なことをやるときに、当時の貴族たちが決まりを作って歯止めをかけたことから生まれたものです。民主主義社会においては、多数意見が常に正しいわけではない、多数意見でも奪えない価値がある、それは人権平和であるということから、選挙で選ばれた多数派による権力行使であっても歯止めが必要であるという意味を持っています。
 民意を大切にして政治を前に進めていく、つまりアクセルですが、しかし、時に冷静になって立ち止まって考えて見る、それが立憲主義、つまりブレーキ役であるというわけです。私たちが憲法をつくって、政治家や官僚や裁判官や行政の人々に対して、「あなたたちこの憲法の通りに仕事をしなさい」と命令する、押しつける、それが憲法なのです。ですから私たちには守る義務などはないのです。
 私たちひとり一人がこの国をどういう形にしたいかを考え、選挙を通じて、表現の自由を通じて憲法を守らせ
ていくのです。
 安倍総理は言います。「国民の命と幸せな生活を守ることは政治家の責任です」その通りです。そして国民の命と幸せな生活を守ることを、この憲法の枠の中でやるように、国民が彼に命令をしたのです。もし仮に憲法の枠の中でそれができないのなら、それは彼が無能なのです。我々国民は安全保障や外交や、政府がやるすべての政策を、憲法の縛り中でやりなさいと命令をしたわけです。集団的自衛権を行使した方が日本の安全保障上有利だという考えも当然あるでしょう。また、戦争ができる普通の国になった方がいいのではないかという考え方も当然あるでしょう。国際政治や、外交上政治家がやりたいことはいろいろあるのだと思います。でもあなた方、それを憲法の枠の中でやりなさいと、国民が命令したのです。それが立憲主義というものなのです。

 憲法99条【憲法尊重擁護の義務】
  天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を
  負ふ。
 そしてもし、憲法という枠がきつすぎると国民が考えたときは、その縛りを少し緩やかにして憲法改正をする。しかし、縛られる側が「この枠は窮屈だから枠を緩くして解釈で何でもできるようにさせてください」などということがあってはなりません。我々が主権者なのですから。


■日本国憲法の根本価値
個人の尊重
 憲法13条【個人の尊重】すべて国民は個人として尊重される。
 私たちの憲法は、国民が国を縛り、安全保障や国民の命と幸せな生活をプロの政治家として守りなさいと命令しているのですが、そのときに一番大切なものとして「個人の尊重」があります。
 個人主義を曲解して「犯罪が増えたのは個人主義の行き過ぎが原因」と言って、個人主義を「利己主義」「わがまま」と置き換える政治家がいます。憲法が保障する個人主義は、戦前の国家主義をやめて、ひとり一人が大切にされる国にしようというもので、自分も大切だけれども、自分と同じように他人も個人として尊重するというものです。この世の中に生まれてこなければ良かった子どもなどは、ただの1人もいないというのが憲法の基本的な発想なのです。そしてひとり一人の幸せのために国があるはずなのです。
 私たちはみんな違っています。ひとり一人違うからこそ素晴らしいのです。そして自分と違う他者の存在を認め合いながら共に生きることのできる社会を目指さなければならないと思います。これは口いうのは簡単ですが、こういう社会になるには後50年はかかると思っています。「立憲主義」という考え方がメディアに出てきて、政治家が理解をするようになるまで30年かかりました。30年同じことを言い続けて、やっと、テレビや新聞が「立憲主義」とか「憲法は国を縛るもの」と言い始め、少しずつ市民の皆さんに広がり始めました。「個人の尊重」が広がり始めるには50年はかかるだろうと思います。どんな凶悪犯であろうと、どんな問題行動をとる子どもであろうと、人間としての価値がある、人として尊重するべきということなのですから、簡単ではありません。自分の身内が殺されたときに、その犯人を人として尊重できるかという問題なのですから。それでも犯人には裁判を受ける権利があり、弁護人をつける権利があるということを認めなければいけないのです。感情を乗り越えなければいけないのです。


憲法改正に向けた自民党の考え(2012年Q&Aによる)
 しかし、アメリカからは「さっさと集団的自衛権を行使できるようにしろ」と言われ続けていました。そこで自由民主党は2012年4月27日に憲法改正草案というものを発表します。これには
「独立国家が、軍隊を保有することは、現代の世界では常識です。」として国防軍を創設することが書かれています。これはやはり集団的自衛権を容認して、日米軍事同盟を強化する。そして何よりも強い国であり続けたいということなのだと思います。経済大国になった日本が一流の国であり続けるためには、軍事力による国際貢献もできなければならない。「金を出すだけ」の国ではなく、軍事力による国際貢献が大切ということなのでしょう。
 日本の若者の命と血を差し出す、それが軍事力による国際貢献です。2011年アメリカがアフガン戦争をやりました。アメリカが始めた戦争にイギリスは集団的自衛権で若者を参戦させ、450人ほどの死者を出しました。カナダもアフガン戦争に参戦して160人ほどの若者が死にました。ベトナム戦争は有名ですよね。韓国が集団的自衛権でベトナム戦争に参加して5000もの若者が戦死しました。アメリカが始めた戦争に参加して、その国の若者が命を落としているのです。「それが普通の国だ。一流の国と言われるために普通にやってきたことだ。日本だけ1人も死んでいないではないか。それはおかしい」というわけです。安倍さんは数年前に『この国を守る決意』という本の中で「軍事同盟は血の同盟である」とはっきり言っています。「日本に何かあった時にはアメリカの若者が血を流してくれる。しかし、アメリカに何かあったときに日本は血を流さない、それでいいのか」とはっきり言っているのです。それが「集団的自衛権であり、対等なアメリカとの関係なのだから、そういう国にしたい」、だから憲法を変えなければならないというわけなのでしょう。憲法改正をゴールだと彼らは言います、そのゴールに向かって私たちは突き進みますと彼らは言っているのです。軍事機密法である秘密保護法も作ってしまいました。集団的自衛権の行使も閣議決定で決めてしまいました。教育にも愛国心などを含めて介入しています。
 そして国際協力の名のもとでの戦争参加、これは今回の法律でやってしまいます。軍事審判所、これも最高裁判所の中に軍事部を作ろうとしています。来年あたり緊急事態条項の明文改正を言い出すでしょう、これは戦争条項ですから。3年前に打ち出したゴールに向かって着々と進みつつあるわけです。 
 そんなことになったら日本人がテロの対象になります。後藤健二さん事件のような悲しい事件がこんなに早く起こるとは思いませんでした。そして何か言えば「売国奴」「反日」などと自由が抑圧されかねません。経済的弱者がアメリカと同じように経済的徴兵制に取り込まれかねません。徴兵制も勿論可能になります。しかし徴兵制を国民が理解するはずはありませんから、「徴兵制は絶対にやりません。今の憲法の下で徴兵制は不可能です」と言います。確かに今の憲法の中では徴兵制はできないという解釈を歴代の政府はしてきました。しかし、「集団的自衛権は絶対にできない」という解釈を、ころっと行使可能に変えたではありませんか。徴兵制も、「限定的な徴兵制は可能です」となる可能性はゼロとは言えないと思います。徴兵制で精神を鍛え直して、愛国心を植え付けさせるだけで徴兵制の目的は達成できます。前線に送り出す必要はないのです。そして軍事費増大をまかなうために増税し、社会保障費を削減する。潜在的核保有を正当化するために原発を推進する。軍需産業と癒着して武器輸出を解禁する。こうして「平和国家」というジャパンブランドを失ってしまうのです。
 これだけ国の形を変えてしまうのですから、本来なら国民的議論をして憲法を改正して変えるのが筋でしょう。実際には日米軍事行動を頻繁に行い、まずは解釈を変える、ガイドラインを作ってアメリカと約束をしてしまう、次にガイドラインに従って法律をつくるという形でやっています。そして恒久法も作る。最後の仕上げで憲法を変えるという本来とは逆のことをして、この国の形を全く変えてしまうということです。「国民が気付かないうちに憲法の実質が変わっていたというヒトラーの手法をまねしたらどうだ」という、麻生さんが言ったとおりのことを進めています。
いざ憲法改正となったときには、準備万端全部整っているということにしたいのでしょう。
 政府は「日本を取り巻く安全保障環境が根本的に変容した」と言います。それはどういうことか具体的に示せと追究されると、何も具体的なことは出てこない。今まではあくまでも警察力と防衛力、平時と有事、個別的自衛権と集団的自衛権を区別し、切れ目をつけることで自衛隊の活動を限定してきました。それが憲法九条の立憲主義的な意味合いだったのです。それを、切れ目をなくしてグローバルに、何処までも行けてしまうということです。閣議決定の要件で「他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険があること」と限定していると言いますが、明白な危険があるかどうかは「ときの政府が総合的に判断する」のです。国会の決議も何もなしに自衛の措置という名目で、広く世界中どこまでも出かけて行って武力行使ができるようにする。それをたかが閣議決定で変えてしまったのです。今それに基づいて法律を作っています。


国包摂性(ほうせつせい=認め合う)と多様性
 私たちは個性を持っています。個性というのは無限の要素の組み合わせなのです。その時にある要素にだけ着目して、女性というところにだけ着目をして、女性ならこういう職業、女性は上の学校なんか行く必要はない、女の子は女らしくしろとか、男性ならマッチョでなければいけない、男の子は男らしくというように性別で決めつける。職業も、自衛官なら、水商売なら、ああだこうだと勝手に決めつけてしまう。朝鮮人だというので勝手にいろいろなことを決めつけてしまう。それを差別といいます。人は目に見える要素以外に無限の要素から出来上がっているのです。目に見える要素以外にさまざまな要素が人にはあるのだということを想像力を働かせて理解していくことができないと差別になります。人権や差別に対しては、優しい気持ちや感性や人権感覚がとても大切です。でも、感覚や感情で終わってはダメなのです。感情や感覚を知性や理性で乗り越えていってはじめて人権を理解できるのだと思います。

日本国憲法の恒久平和主義
 個人のレベルでの「多様性の認め合い」を、国家のレベルに引き上げたものが憲法九条なのです。いろいろな国があります。さまざまな国柄があります。さまざま宗教を持っています。自分と違った考え方をする国の存在を認めた上で、どうすればうまく折り合っていけるかを考える。私は自由や人権や民主主義は大切だと思います。だからといってアメリカのようにその価値を共有できないからといって、爆弾を落として潰してしまった方がいいとは思いません。価値観が違う国の存在を否定して戦うのではなく、違う国のあることを認めた上で、折り合いをつけることを考える。それが日本国憲法九条だと思うのです。
 私たち人類は多様性故に発展してきました。さまざまな国からきた文化や文明を融合させて新しいものが生まれていく、そうやって進歩し発展してきました。しかし、反面人類は自分と違うものを認められず、憎しみ破壊をしてきた面があります。私たちの憲法九条は私たちと違う価値観を持った国の存在を認めた上で、もめ事が起きたときに武力を行使しません。そして行使する手段としての交戦権を持ちませんと言っているのです。

徹底した恒久平和主義(9条)
1項「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威
  嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」
2項「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めな
  い。」
 2項こそが本質なのです。1項のように戦略戦争をしないという国は150以上あります。最初に侵略戦争の放棄をうたった国はフランスです。1789年のフランス革命の後「フランス人権宣言」が出ますが、その2年後1791年にできた「フランス憲法」に侵略戦争を放棄することが書かれています。侵略戦争の放棄は目新しくはないのです。私たちの憲法は「あらゆる戦争を放棄する」としているのです。

積極的非暴力平和主義
「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する(憲法前文2項)。
 前文の中でも最も好きなフレーズです。日本の憲法であるのに、日本国民がと言わずに「全世界の国民が」と言っています。全人類を視野に入れた憲法なのです。未だに「日本の平和主義は一国平和主義だ」とか言う人たちがいますが、とんでもない、全世界を視野に入れた憲法を我々は持っているのです。世界中の子どもたちが、飢餓や貧困や恐怖を持たないように日本は努力をすると世界に宣言したのです。世界にはまだまだ疾病、飢餓、災害、人権侵害、差別、格差といった紛争の原因となるような構造的暴力をなくすために、学校を作ったり、灌漑用水を引いたり、作物の作り方を教えるなどをする。それが日本が行う国際貢献であり、そういう積極的な役割を果たすことよって自国の安全と平和を達成する。軍事力だけが国際貢献ではない。それを私は「積極的非暴力平和主義」と呼んでいましたが、最近は「積極的平和主義」という紛らわしい言葉が出てきてしまいました。「積極的非暴力平和主義」は、安倍さんの言う「積極的平和主義」とは真逆で、非暴力の国際貢献こそが日本にふさわしいのではないかと思います。

交戦権
 九条2項に「国の交戦権は、これを認めない。」とあります。交戦権というのは、相手国兵力の殺傷と破壊、つまり敵の兵隊を殺すことです。日本は交戦権を認めていませんから、自衛隊は出かけていって相手を殺すことはできません。人殺しができない部隊、それが自衛隊なのです。ですから自衛隊は軍隊ではありません。例外的に正当防衛が認められているだけです。国内の警察官や我々市民と変わりません。日本が攻撃を受けた時に日本を守るために武力を使う、これを「個別的自衛権」と言いますが、歴代政府は「これだけは認めて下さい」と言い続け、「例え自衛の名目であっても海外に出て行って武力行使はしない」ということを70年間ずっと守ってきました。
 自衛の名目で海外で武力行使をするなら、戦前と全く同じになります。「満蒙は日本の生命線だ」、そして石油やゴムやボーキサイトが入ってこなくなって国民の生活が困窮するからと言って南に侵略していきました。日本の歴代の政権は「個別的自衛権」と「自衛の名目での武力の行使」を、70年間ずっと区別してきました。

 

安全保障法案、各法の関係
                  

PKO協力法では国連決議において停戦合意ができている国に行って、中立的な立場で人道支援を行う。
 恒久法は、戦争をしている国に戦争の当事者になりに行くという法律です。停戦合意のない国の一方の当事者に後方支援という形で参加する。戦闘の現場はダメだけれども戦闘地域に行って、弾薬の補給などを行うのです。補給路を断つのが戦争の常識です。最も危ないところです。巻き込まれるのではなく、日本の意思で戦争に参加しに行くのです。それが恒久法です。表の上の三つは
武力行使はできません。憲法九条が交戦権を認めていないからです。でも正当防衛としての武器の使用はできると安倍さんは言います。武器の使用は現場の自衛官の判断で行うが、武力の行使は国家の意思として行うということです。しかしミサイルやロケット砲、軍艦もすべて武器なのです。やることは同じでも、交戦権を認めていないから「武力の行使」と言うことができないというだけのことなのです。しかし、相手から見たら区別できるわけがありません。こうして集団的自衛権の下で堂々と武力の行使をすることになるわけです。
 グレーゾーンのところでは、外国の軍隊の武器を防御するために、日本の自衛隊は武器を使用できるというのです。アメリカ軍の軍艦という武器を守るために、自衛隊はミサイルという武器を発射することができるということです。このようにゴマカシや問題点が山ほどあるのです。何よりもわざわざ紛争当事者になりに出かけていくということと、自衛の措置という名目で集団的自衛権を認めてしまうことになることが問題なのです。
 
 アジアには確かに緊張関係があります。しかし、中国も北朝鮮も韓国も、文化的にも経済的にも緊密な永久の隣人同士なのです。好き嫌いに関係なく上手くやるしかないのです、私はドイツとフランスの間で結ばれた「仏独エリゼ条約」(1963年)が参考になると思っています。これは「いかなる場合にも国際紛争を武力行使で解決する選択肢をとらない」ことを基本にして、相互理解を深めていく、それがEUの基になったのです。そのためには歴史に真摯に向き合うことです。そして日本国憲法の徹底した恒久平和主義を基本とすべきだと思います。日本にとって最大の脅威は自然災害であって、近隣諸国との武力紛争ではありません。
 個人のレベルでの「人と同じ、人と違う」があっていいのと同じように、「他国と同じ、他国と違う」があっていいのです。何もかも同じである必要はまったくありません。どこの国も軍隊を持っているのに日本だけ持っていないことを情けないと思う人もいるでしょうが、それこそがこの国の価値であり日本の叡智だと思うのです。
これを日本の改憲を目指す人たちは見事に逆転させます。個人の尊重や立憲主義を止める。恒久平和主義を止めて普通の国にするという方向に今突き進みつつあるのです。その動きを阻止する上で重要なことは、想像力(イマジネーション)が必要だと思います。権力の危険性への想像力、戦争の悲惨さへの想像力、自衛官、他国民1人1人への想像力、自分の生活がどう変わるかへの想像力、そして世界からどう見えるかへの想像力も大切だと思いますし、歴史を学ぶ勇気と誇りを今だからこそ持たなければいけないのではないかと思います。
 私は子どもたちに、このような物を見せて、中国や韓国から日本を見たらどう見えるか考えてごらんと言います。弓形に覆い被さって見えるかも知れません。視点を変えてみることも必要だと思うのです。

 ドイツでは、ニュルンベルグ裁判所は、今ナチス資料館になっていて学ことができ、大勢の人が学んでいます。ユダヤ人強制収容所には若い人から年配の人までがパネルを見ながら加害の歴史を一生懸命勉強をします。乳母車を押した家族連れがヒトラーの歴史を学びにくるのです。日本には加害の歴史を学べる場所はどれだけあるでしょうか。加害の歴史どころか、被害の歴史すら学べるところは少ないです。70年経った今だからこそ、歴史を学び直すことは大事だと思います。

国■日本はどんな国に変わろうとしているのか  〜私たち自身が何を目指すか〜
 国は与えられるものではありません。私たちが作るのです。それが、国民が主権者であるということなのです。自立した市民として、それぞれができることを行動する。おかしいことにはおかしいと声を上げる。何よりも市民の連帯の力は大きな力です。5月3日の横浜での集会にも大勢集まりました。今も、連日のように国会を包囲していろいろな皆さんが声を上げ続けています。

有名なマルチン・ニーメラー牧師の言葉です。
  はじめにやつら(ナチス)は共産主義者に襲いかかったが、私は共産主義者ではなかったから声をあげな
 かった。そして、やつらは社会主義者と労働組合員に襲いかかったが、私はそのどちらでもなかったから
 声をあげなかった。つぎにやつらはユダヤ人に襲いかかったが、私はユダヤ人ではなかったから声をあげ
 なかった。そして、やつらが私に襲いかかったとき、私のために声をあげてくれる人はもう誰もいなかった。
 「茹で蛙」という言葉があります。熱いと気がついたときにはもう手遅れなのです。私の両親も言っていました。「兵隊さんが出て行って帰って来なかったり、新聞などで勇ましい報道があったりするので、日本は戦争をしているのだなと頭では何となくわかっていたのだけれど、実感は全くなかった。焼夷弾が降ってきて、火の中を逃げ惑って、はじめてこの国は戦争をしているのだと実感した」と。それでは手遅れですね。

もう一度考えましょう。私たちはどういう国でありたいと思っているのでしょうか。どんな国で生活をしたいと考えているのでしょうか。
        自由にものが言える国ですか?  萎縮してしまう国ですか?
     メデイアが権力批判できる国ですか?  権力賛美しかしない国ですか?
                 戦争できない国ですか?   戦争しに行く国ですか?
               敵を作らない国ですか?  敵を作る国ですか?
     外交力で信頼関係を構築する国ですか?  軍事的抑止力で押さえ込む国ですか?
      全世界の国民を考える国ですか?  同盟国のことだけ考える国ですか?
           独立主権国家ですか?  究極の対米従属国家ですか?
                                     法の論理ですか?  力の論理ですか?
       法でコントロールする国ですか?  力で押し通す国ですか?
                   法の支配ですか?  人の支配(安倍の支配)ですか?
 この国は70年間戦争をしないできた国です。アメリカは今も戦争をし続けている国です。こんな国といっしょに日本は何をしたいのですか。


最後に みなさんへの期待     
 憲法は理想です。現実を理想に近づけていくことこそ必要です。
 明日の日本は今日の私たちがつくっていくものです。毎日何を考えるか、そのことによって
この国の形は変わっていくのです。私たちは未来を変えられるのです。
 今を生きる者としての責任を果たす。この国の自由と平和をつくり上げるためにどれだけ多くの人々が大変な思いをしてきたのか、その先輩たちへの責任、これから生まれてくる新しい命に対する責任、次の世代への、今を生きる者の責任があるだろうと思います。そして憲法を知ってしまった者としての責任があります。市民として主体的に行動するということです。

Festina Lente (ゆっくりいそげ)
 慌てず、焦らず、諦めず、一歩一歩が大切です。それぞれができることをやっていく。それぞれができることはたくさんあります。まだまだ審議は続いていきます。意見書を送る、メールを送る、ハガキを送る、メディアに対して反対意見を言う、署名をする、今日のような集会に参加する、国会前に行って講義する…いろいろなことができるはずです。周りの人たちに「自民党ちょっと感じ悪いよね」とちょっと話題にしてみる。もう一つ大事なことは「絶対に忘れないぞ!」という声を上げ続けるということです。彼らは「国民はすぐ忘れる」と国民を愚弄しているからです。私たちは決して愚かではないと示すために声を上げ続けることが大事です。次の世代に、また次の世代にと声を上げ続けていくのは大変なことです。戦後70年、戦争をしないでここまで来れました。次は戦後100年、戦後200年も迎えられたらすごいことです。70年、戦争をしないできたというだけですごいことです。これを次の世代に伝えていくのが、今を生きる私たちの責任なのだと思います。
絶対忘れない、絶対諦めない、それを皆さんと共有したいと思います。